脚本:寺山 修司 演出:こいけ るり ドラマトゥルク:こしば きこう
ターザンのような肉体が現代人の理想なのか?それとも「丈夫で長持ちする」機能的肉体が現代人の夢なのか?そうした問いかけなしには、このドラマのミステリー中年男が「人魚になった理由」推理することなどはできないだろう。
ネットで調べてみると『天井桟敷新聞』の作品紹介には寺山による上記の文があったという。現在なら「多様性」という言葉を出すまでもなく何の問題提起にもならないと思うが、60年代は「どんな肉体が理想なのか」という問いかけが可能だったことに正直驚く。赤色カーニバル版の今作でも導入部で形を変えながらも上記の内容が問題提起されていた。ただこの問いかけは、「人魚」を登場させた理由(元ネタ)を分かりにくくするための、寺山流のイタズラではないかとボクは思っている。
観劇前に戯曲を読むと、何となく引っかかるところがあった。一の男が人魚になって肉の生活から精神的生活を楽しめるようになった、というところ。「ピーター・パンに似ている」と思った。OrgofA『Same Time, Next Year』の感想にも書いたが、「半獣神パンに聖ペトロのピーターを付けて「肉のわざ」の暴走に「愛のわざ」のブレーキをかけていたのだ」(『ミルワード神父のシェイクスピア物語』)がピーター・パンの由来である。
そんなところから天国からパンが届くのは「食べるパンと牧羊神のパンをかけているのか?」と思うにいたった。それにパンには「すべて」の意味があるので、何か悪いことが起こると男たちが全部デブコのせいにする意味もわかる。パンは生まれたとき畸形といえる半獣の姿ゆえに驚いた母親は逃げ、その姿を見た神々の笑いものにもなったエピソードは寺山好みに思える。また、ギリシア神話最強の怪物テュフォンに襲われた時、不意を突かれ驚きのあまり下半身だけ魚になってパンは川に飛び込んだ。一の男がデブコの亡霊から逃れるため人魚になったのは、このエピソードからヒントを得たのではないか?それがボクの見立てである。なんて思いながら調べてみると、寺山が学生時代に創った同人誌の名は『牧羊神』だという。それ程パンが好きなら寺山作品に隠し味として牧羊神パンのエピソードがあっても不思議ではないと思えた。
そこで牧羊神パンをキーワードに戯曲を読み直したボクの仮説は、『パンタグリュエル物語』(フランソワ・ラブレー)と『パンの大神』(アーサー・マッケン)を下敷きにして寺山は『大山デブコの犯罪』を書いた、である。これらの作品の設定を登場人物に割り振ったとすれば、それなりに説明がつくことが多いとボクには思えた。
仮説の前提として寺山がラブレーを読んでいるのは確認できたが、マッケンについては確認できなかった。しかし『パンの大神』で、山があり峡谷のある地方にいながら「ひょっとすると、この実験室のぐるりの壁が溶けて消えてしまい、目がさめてみたら、自分はロンドンにいた、なんてことになるのじゃないかな」との描写を読めば、「読んでいる可能性はあるな」とそれなりの数の方に思っていただけると思う。
さて、『パンタグリュエル物語』の内容であるが、第四之書第二十八章で「パンの死」を取り上げている。プルタルコスの『モラリア5』にある「神託の衰徴について」である。ローマのティベリウス帝の時代、航海中に船長が「大神パンは身まかりぬ(死んだ)」との神託を受けたという(一の男も神託を受けている)。神託はキリストが磔になった日の夜との説もある。そして「ヘブライ人への手紙」13:10の「偉大なる牧者となれる我らの主イエス」からか、ラブレーは牧羊神パンとキリストを同一に視る。しかしキリスト教からは違う見方もある。牧羊神パンを悪魔とする見方だ。『モラリア5』の解説によると、ギリシア教父のエウセビオスはパンの死が「キリストによって征服された古代の異教の終焉」と解釈したという。
「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」 ヘブライ人への手紙2:14-15
とあり、神がキリストを「すべての支配、権威、権力、権勢の上」(エペソ人への手紙1:21)においたのである。受肉したキリストの死によってパンは世界から放逐されたのだ。パンは死んだ、もしくはこの世界からいなくなったはずだが、ここでアーサー・マッケン『パンの大神』の出番である。脳手術によって見えないはずのパンを見た女性は気が狂ってしまう。そして父親は分からないが女の子を出産する。その子が成長し関係を持った男性が次々に自殺していく(デブコを見た一の男が自殺するのと重なりませんか?)。これが『パンの大神』の内容である。女は正体に気づいた者たちによって自死に追い込まれるが、死体が女から男へ、人間から獣へ、さらに・・・と姿を変えていく。女はパンが受肉したものだったのだろう。デブコが魔子の友だちから魔子の母へ、そして実は存在しないデブコ。そのデブコが受肉した姿が魔子?・・・と変容していく様が重なるといったら強引だろうか?
ボクの仮説が正しく、大山デブコたちと牧羊神パンにキリストを重ねてみるなら今作の理解には上記のように聖書が欠かせなくなる。ヨハネによる福音書6:50には「天から下ってきたパンを食べる人は決して死ぬことはない」とある。パンはキリストのことである。だから男三人がパンを食べて、大山デブコに「憑かれたんだ」なんていう会話を聞いても、「そりゃパン(大山デブコ)を食べているからね」と納得してしまう。自殺したはずの一の男が生きていても「そりゃパン(キリスト)を食べたから死なないよね」と思ってしまう。
それに「世界中のにんげんは一つの肉の塊で」「ふとる、やせるは略奪の問題だ」というセリフは、神は体の調和を与えたというコリント人への第一の手紙12:26-27の、「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。」「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。」を意識しているのかもしれない。
さらに指摘すると、いろはにほへとを鋏で切って並べ替え、意味を無くする遊びも反聖書的と言える。ヨハネによる福音書1:1「初めに言があった。言は神と共にあった。」に反していると言えるだろう。そして一の男が魚釣りをするのもパンがどんどん増えていくのも、マタイによる福音書14:13-21にある二匹の魚と五つのパンで五千人の腹を満たした奇跡のパロディなのかもしれない(釣りとキリスト教の関係についてはブラッド・ピットの『リバー・ランズ・スルー・イット』もオススメです)。牧羊神のネタから人魚を発想したり、牧羊神を殺した(放逐した)キリストの要素、悪魔と神をごちゃ混ぜにしてカオスな状態を寺山は作ったのではないか?とボクには思える。
だから元々の戯曲ではチンドン屋が出てくるところで修道女が出てきたり、キリスト?が十字架を背負って歩く姿の演出には「我が意を得たり!」と膝をたたきたくなった。キリストの復活を表すのか、布でぐるぐる巻きになった人形もあり「細かい!」と唸ってしまった。
もちろん、演出の本当の意図は演出家本人に述べていただくしかないので解説を待ちたいところ。けれど、その機会はきっと無いのだろう。大胆な演出であったが解釈は観客の自由に任せるのも良し。ぜひ多くの方々の考察を知りたい。正解が無いのも、これまた楽しいのだから・・・。 でもやっぱり演出家自身の解説も、ちょっと期待してしまうボクなんですけどね。
※赤色カーニバルは「劇団風蝕異人街」の劇団内若手ユニットなのだが、風蝕異人街の次回作はギリシャ悲劇の『メディア』である。メディアにも牧羊神パンがチラッと出てくる。実はこのタイミングでの大山デブコの上演は若手による壮大な前振り、と解釈するのは深読みのしすぎだろうか?
2024年9月16日(日)15:00 アトリエ阿呆船にて観劇
text by S・T